国際電話プリペイドカードシステム編【3】

ボードをデジタル対応してまで、一体何を作ろうとしていたのか?
コールバック交換機システムである。

当時の国内キャリア(KDDとかIIJとかIDCとか)が提供する国際電話料金は、かなりの高額だった。
正当な市場競争に晒されていなかったからだ。

日本からアメリカに電話をかけると、1分400円もした。
ところが、アメリカから日本へ電話をかけると、1分29円ぐらいでかけられた。
アメリカでは多数のキャリアが乱立して、競争原理がいき過ぎる程、はたらいていた。
この内外価格差を利用したサービスがコールバックだ。

アメリカにある特定の電話番号を鳴らして、切って、待っていると、アメリカから電話が掛かって来る。
その電話を取ってから、改めて、相手先の電話番号を押すと、そっちに繋がるという寸法だ。

電話を鳴らして、切っての時間が面倒くさいから、パケット通信網でリクエストを投げよう。
ピッ、ポッ、パッと電話番号をかけている時間がもったいないから、デジタルで発信しよう。
拠点から日本まで、拠点から相手先までの2通話を繋げないといけないから、減衰のないデジタルで接続しよう。

コールバック通話サービスは画期的だった。
そして、その欠点を補う為に開発したコールバック交換機システムも飛ぶように売れた。

で、結局、売れすぎて、会社が潰れた(笑)。

会社の規模を大きくした時に、KDDが値下げしてきたからだ。
1分400円の通話を200円に、更には150円に値下げしてきた。

それだけ、コールバックが日本市場に与えた影響は大きかった。

国際電話プリペイドカードシステム編【2】

開発体制は、
・米側の協力会社:米東海岸
・ボードメーカー:米西海岸
・日本側:オレσ( ̄◇ ̄;)

開発は、オレだけが、壮絶を極めた!
だって、オレだけ寝れねぇじゃん( ̄∀ ̄メ)。

当時はまだINS1500用のシミュレータなんてものは無かったので、会社に引かれた一本きりの光ファイバーの前に陣取って、24時間ログ解析。
アメリカ側ではプロトコル仕様書を元に想像でプログラミングするしか無いので、ちょっとした読み違いで何日も費やしたりもした。

CTI用のボードをデジタル回線(日本独自仕様のINS1500)に対応させるというのは、CTI史上に残るエポックメイキングな出来事だった。
ここで苦労して、デジタル回線対応をしたことで、この後にフリーになった時、会社を設立した時に、凄く優位になった。
初期のメインソリューションの殆どが、デジタル回線を使用したものだったからだ。

風の中のすばる~♪

国際電話プリペイドカードシステム編【1】

最後にサラリーマンをやっていたのは、CTI(コンピューター・テレフォニー・インテグレーション)を扱っている会社でした。
現在、CTIと言うと、コールセンター向けのシステムを指しますが、当時は名前の通り、コンピュータと電話を融合させたシステム全般を言いました。

その会社で最期に手がけた仕事が、アナログ回線用のボードをデジタル回線に対応させる事でした。

当時、NTTは各家庭に光ファイバーを施設する構想を打ち出して、INS1500とINS64という商品を積極的に販売していました。
CTIに使用しているボードは、まだまだアナログ回線用のものしかなく、スイッチングして顧客同士の回線を接続すると、減衰が激しくてノイズものってイマイチでした。
(当時はアナログしか無かったから疑問を抱かなかったけど、改めて使ってみると酷いもんです。地デジに慣れた目で、アナログ放送のブラウン管テレビを視ている感覚かな?)

外国で発売されているT1回線用のボードをINS1500用に改造すればいいのではないか?
ISDN(サービス総合ディジタル網)は外国でもやっているのだから、データラインのファームを入れ替えれば出来るはず。

上記の合言葉の元、Dialogic製のデジタルボードのファームを入れ替えて、INS1500対応に改造することになりました。

会社設立までの個人履歴【その8】

しかし、時期が悪いと言うのは、本当だった。
(まあ、オカルトだったかもしれませんが…)
その方もそうだけれど、私の方も同じだったのだ。

大殺界、天中殺、空亡…。
言い方は色々あるけど、12年に2年だけ訪れるらしい。

巨人の松○秀喜は、そんな時期にヤンキースに行ったんだけど、全く振るわなかった。
浅○真央がバンクーバーでコケたのもそんな時期。

いや、そんな時期だからこそ、やってみよう!!!

・・・なんて風には思わない軟弱な私。

やっぱり1年待ってから設立しました。

会社設立までの個人履歴【その7】

とある会社で、社内唯一のCTIのプログラマーがやめてしまうので、何とかならないか?との相談を受けた。
当時はフリーで乗ってきた時期だったので、丁重にお断りするつもりで出向いていった。

そうしたら、プログラムさえやってくれれば、雇用形態にはこだわらないとの事。
他の話でも盛り上がり、すっかり意気投合してしまった。

現在は資本金1円の会社も作れるが、当時、株式会社は1000万円、有限会社は300万円の資本金が必要だった。
もちろん、そんな貯金はどこを見回してもあるはずはない。
意気投合したついでに、将来は会社にしたい、資本金にする金を貸して欲しい旨を打ち明けた。

「私は時期が悪いが、8ヶ月もすれば”喪”が明ける。
その時にお貸しします。
会社を作ったら、真っ先に契約をしたい。
それまでは、個人で受けて欲しい。」

果てさて8ヶ月後、というよりも、それを待たずして、個人での発注額が軽く1000万円を超えてしまった。
貸してくれるどころか、発注で資本金相当額をくれたのだ。

その節は、ありがとうございました。